二人の命を助けどこかで生きていると思うととてもうれしい。

初めに大好きな叔父のことについて話します。私の叔父は46歳独身で税理士事務所で働いています。私の母とそっくりだけど性格は母より優しいです。母の実家に泊まりに行った時、焼き肉を食べに行ったり、映画を見に行ったりといつも遊びにつれて行ってくれます。また、叔父はクレーンゲームが得意なのでぬいぐるみをとってきて私たちを喜ばせてくれました。そんな大好きな叔父のことを「こうじにいにい」と呼んでいました。

今年の初夏、12時頃、習字の時間にインターホンがなり先生から急いで帰りの準備をして職員室に行くように言われ兄と一緒に帰りました。父から、 こうじにいにい が倒れたと聞き、その時私は軽い怪我くらいだと思っていました。それから、父は私たちを車に乗せ こうじにいにい がいる病院に行きました。病院に着き父の後ろをついて行くと見なれない大きな病室に入りました。 こうじにいにい はぐったりとしていて声をかけても返事をしてくれませんでした。 こうじにいにい は人工呼吸器をつけているおかげで生きていられる状態だということを知りました。もう体を動かすことはできないと知らされ私はとても心配しました。

次の日は、学校を休んで こうじにいにい のそばにいることにしました。ひょっとしたら目を覚ますかもしれないと思ったからです。 こうじにいにい の手や足をマッサージしたり、顔をふいたり、好きな洋楽の音楽を流したり、話しかけたりしました。先生や看護師さんは様子を見に来てくれた時に、私に「大丈夫?きつくない?」と声をかけてくれました。ベッドの近くにある機械の点検や気道につまったたんの吸引や体をふいたりしてくれました。そんな先生や看護師さんの姿を見て こうじにいにい が一日でも長く生きていられるように助けてくれているのだと思いました。医療の現場を初めて見て先生や看護師さんは大変だなと思いました。

甥と
甥と

その次の日は、学校に行きました。その夜、 こうじにいにい が亡くなったことを知りました。もう こうじにいにい と一緒に遊べないと思うと悲しくなり涙がとまりませんでした。

亡くなる前、臓器提供をすることを母から聞いていました。 こうじにいにい は運転免許証と健康保険証の裏に意思表示をしていたので祖母が臓器提供をすることを決めたそうです。

まず、移植コーディネーターによる説明がありました。脳死判定後の臓器提供では、心臓、肺、肝臓、腎臓、すい臓、小腸、眼球の提供が可能ですが、体が温かいまま手術室に運ばれ、臓器を摘出され体が冷たくなってもどってくるそうです。その現実を受けいれることができないと判断し、心臓が停止した死後に臓器提供ができる腎臓だけを提供するように決めたそうです。母たちは臓器提供の承だく書を何枚も書いたそうです。 こうじにいにい は採血や手術前の検査や、心臓が停止した死後、腎臓に血液が流れない状態が続くと腎臓の機能は急激に悪化し摘出しても、移植ができなくなる場合があるので脚のつけねの動脈と静脈にカテーテルを入れて血液がかたまらないようにお薬を入れたり、死後腎臓を内部から冷やし、臓器を保護するための処置をしたそうです。移植を受ける患者さんの選定があり、死後臓器の摘出とはん送が行われました。手術室に向かう こうじにいにい を見送る時、複雑な気持ちだったがつらかったと祖母は言っていました。

姪たちとお誕生日会
姪たちとお誕生日会

おそう式で悲しみの中、移植コーディネーターの方から電話があり、左の腎臓は60歳男性、右の腎臓は50歳女性に移植されたそうです。 こうじにいにい の腎臓で2人の命が助かり透せき治りょうをしなくてよくなり普通の日常生活を送れるように回復されたそうです。また、女性の方は、ずっと移植ができることをまっていたがほとんどあきらめていたそうです。だけど、移植ができるようになり、宝クジに当たったくらいうれしかったと言っていたそうです。 こうじにいにい が2人の命を助けどこかで生きていると思うととてもうれしく思います。また立派な叔父だったと尊敬しています。

姪たちとお誕生日会
姪たちとお誕生日会

火そう場では、 こうじにいにい の友達が遅れていましたが、機械が止まるという事故が起きました。私はその状況を見て こうじにいにい は友達が来るのをまってると思いました。

私の大好きな こうじにいにい が突然死んでしまったこの現実を受け入れてこれからの人生に希望を持って、強く生きていきたいと思います。

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