体験者の声

臓器提供した方のご家族のインタビュー「いつかの言葉が、希望になる。~母の臓器提供と、その家族~」

最愛のお母さまが突然倒れたとき、深い悲しみの中で、いつも聞いていた言葉を思い出し、臓器提供を決断しました。家族との会話、命への想い。まだ小さな子どもたちの育児と家事とお仕事に追われながらも、その経験を語り始めた遠藤麻衣さん。そのまなざしは前を向き輝きに満ち、人を想い強く優しい気持ちに溢れていました。

母との会話、何気ない言葉が伝えてくれたこと

母は、とにかく強くて優しい人でした。

我が家では大黒柱のような明るい存在で、外では老人ホームや地元の敬老会を訪れて、日本舞踊を踊ったり、歌を歌ったりして、誰かのために行動することがとても好きな人でした。孫が生まれてから8年間一緒に暮らしていましたが、大変だわ、面倒だわ、と言いながらも、とても嬉しそうにご飯の支度やお風呂・お迎え等に時間を割いて手伝ってくれました。

母とは学校に送ってもらう車の中でいろんな話をしていて、母はごく自然に「ママが死んだら、使えるものはぜんぶ使ってね。灰にしたらもったいないじゃん」と言っていました。私はまだ学生だったから「ふーん、そう、わかった」と、聞き流しましたが、その後もテレビ等で命に関わるニュースが流れると、母はこの話をしていました。また、新しい健康保険証をもらうたびに、裏面の意思表示欄にも記入し、お互いに家族署名欄に署名しあっていました。

母は、こうやって日頃から私たち家族に臓器提供に関する思いを話したり、考えるきっかけを与えてくれていたのです。

母に寄り添い決断した8日間

ある日突然、病院から電話が来て、母が救急搬送されたことを知りました。病院に駆けつけましたが、母は意識不明の状態で、点滴等で管だらけでした。

病状を説明してくれた看護師さんから、意識が戻らないまま命を落とす可能性があることを告げられましたが、私は「絶対大丈夫に決まっている」としか思えず、母が目を覚まし、元気になることを信じて疑いませんでした。

しかし、最善の治療を尽くしても母の意識は一向に戻らず、私たち家族は、母に対して「残される人の身を考えなよ」という憤りと、「どうして私たちがこんな思いをしなければいけないの」という悲しみの葛藤の中、苦しい8日間を過ごしました。

管だらけの母を見ていて、ふと数ヵ月前に家のリビングで話したときの母の言葉を思い出しました。

管だらけで痛いのは嫌だから、使えるものはぜんぶ使ってほしい。

そして、父も主治医から「もうお母さんは、自分で息をしていません。機械で息ができている状態です」と厳しい状況であることが告げられると「もう、かわいそうだから楽にさせてあげてほしい」と静かに話しました。
家族の誰もがつらく、母が元気になることを願っていたので、臓器提供について思い出す余裕はありませんでしたが、その父の言葉をきっかけに、母の願いを叶えてあげたいと、少しずつ考えるようになりました。

母に臓器提供の意思があることについて、私から主治医に伝えました。
確認のため行われた脳のCT画像を見たとき、叔母の「これはお母さんからの合図だね」という言葉で、私たち家族の願いは変わりました。

「ひとつでも多くの臓器が使えるように、ママ 頑張れ」

その後、移植コーディネーターから臓器提供についての説明を受け家族みんなで承諾しました。
「やめたかったら、いつでも言ってくださいね」と声を掛け、寄り添ってくれることがとてもありがたかったです。

血圧は安定しているし、顔色も良いし、体の温かい母を見ていると、本当に臓器提供してもいい?今はどう思っている?と心が揺らぐこともありましたが、それでも、母の臓器提供してほしいという確かな願いが、私たち家族の決断をしっかりと導いてくれました。

大きな病院ですが、約7年ぶりの臓器提供だったと聞き、やっぱり母はすごい仕事をしたな、と思いました。

臓器提供について話をすることは、自分の命を見つめること

私にとって、母の臓器提供は希望です。

母の臓器によって生きられる人がいて嬉しいし、移植された人自身も嬉しい、そしてその周りの大切な人たちも嬉しい。臓器提供をすることによって、悲しみの先に多くの人の嬉しさの連鎖があることに気付きました。

移植を受けた人から、サンクスレターもいただきました。
心臓を移植した人が元気になった様子や、腎臓を移植した人が透析をしなくてもよくなったという近況を知り、母はまだ生きているのだと感じることができます。

私たち家族は日頃から臓器提供について話をしていたから決断ができました。母の思いを叶えられて良かったです。
また、臓器提供について考えることは、自分の命と向き合う時間になり、命の尊さに気付く機会になります。今では、小さな子どもたちにも臓器提供の意味や命の大切さを話しています。その年齢なりに分かってきているようです。

この経験をしっかりと伝えていきたいと思います。
そして、母の分まで家族と全力で生きていきます。

一人でも多くの人が、家族や大切な人と臓器提供について話す機会が増えることを願っています。

母への手紙

ママへの想い。一年後。

「1歳のお誕生日おめでとう!」ってママに言ってもらって、それからすぐにママは死んでしまいました。
小さかった子どもたちも、今ではパパのこともじーじのことも自分のことも認識できます。3人のお姉ちゃんが写真を指差して、この人がみーみだよ。おばあちゃんだよ。と教え込んでいます。みーみと言えるようにもなりました。でも、みーみと言えるようになったけれど、ママの顔はまだ認識できていません。

去年の夏は、大きなスイカを転がしながら一緒に写真を撮ったけど、今年の夏は一緒にスイカを食べられませんでした。お盆の準備ってなに?なにをどう用意すればいいの?浴衣の着付けも、私一人でどうしよう。
秋。毎年恒例の松茸。豊作だったよ。お客さんに振る舞おうにも、ママがお料理してくれないから、私が代わりにママがいつも作っていたように松茸ご飯にしました。作り方、これで合っているの?

一緒に住んでいたママが突然いなくなった悲しみを味わった1年でした。
人が突然死ぬということ。そのことで身近な人がどれだけ悲しむかを知りました。

まだママがいなくなって1年と少し。
忘れないように忘れないようにって、ママがいた空間を思い出して毎日必死に生きています。

でもママがいないという現実を、みんなで生きていくためには忘れないようにしたり思い出している余裕は、正直ありません。死んじゃったママのことばかりを考えてなんかいられない。

そうやってママを忘れて、ママのいない生活が当たり前になっていきます。
そのことに気が付く瞬間がとてもつらくて悲しくてそんな自分を責める気持ちにもなります。

そのくらい死んじゃうことは私を苦しめます。ずるい、ひどいって思います。
ママは死にたくて死んだわけじゃないのにね。分かっているのにずるいよ、ひどいよってママを責めながら生きていくことは、許してほしい。

なかったことにできたらいいのに、それができない現実を、残された人は生きていくことになります。

だから私は、生まれてきて生きていくこと、それがどれだけ尊くてありがたいことなのかを人に伝えていきたいと思います。
分かっていることは、生きている限り生老病死は避けらないということ。
縁起でもないとか、まだ大丈夫とかそんなことどうでもよくて、人はいつか必ず死ぬことになります。それがいつかはわかりません。決まっていません。
ママにあのとき人間ドックを勧めていたら。病院に行くように説得していたら。防げることができたのではないか。とかタラレバばかりです。

それでも私は、ママと臓器提供の話だけはしっかりしていた。
「ママが死んだら、使えるものはぜんぶ使ってほしい」

この会話だけは明確で、確実なママの気持ちでした。

私がこの言葉を聞いていたからこそ、私たち家族は決断できました。
ママの思う心が、今どこかである人を救い、その人を大事に思う周りの人たちをも救ったのだと思うと、私たちの悲しみは半分減って希望に変わります。

ママがまだまだ生きていると思える。それこそが私たち家族の生きる力です。

ママ、私に臓器提供の意思を残してくれて、ありがとう。

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